エジプト神話の【アヌビス】という名前を一度は目にしたことはありませんか?特徴的な頭をした神様なので、絵を見ると「ああ」と頷く方もいらっしゃると思います。ホラー小説やミステリー小説などでたまに見かける名前です。と言うのは、アヌビスは死の神ですから、死と深く結びついた物語には縁が深いのではないでしょうか?
アヌビスとは?
頭は黒い犬、体は人間である冥界の神です。冥界の神にふさわしく、お墓を守り、死者を冥界へ導く職を担っているそうです。ギリシャ神話の冥王ハデスと冥界の番犬ケルベロスの両方の役をしているようですね。
両親ですが、猫の女神であるバステトの子と言われています。しかし、時代が下るとオシリスとその妹ネフティスの息子とされるようになりました。ところがネフティスの章で紹介したように、彼女はオシリスの弟であり、殺害犯であるセトの妻でした。なので、アヌビスはオシリスとネフティスの不倫関係の末に生まれた子どもと見なされるようになったのです。
この説で行くと、アヌビスは【太陽神】【天空神】などの呼称を持ち、エジプト神話でも人気の高いホルスとは異母兄弟であり、従弟でもあることになります。ネフティスはホルスの母イシスの妹でもありました。
別名として【インプ】と呼ばれることもあります。これは古代エジプト語で【若い犬】を意味する単語だそうです。
神聖動物:犬
別名の意味を見てもおわかりのように、アヌビスと犬は同一と考えられていたようです。頭は黒犬ということですが、彫刻などを見ると幅の広い尻尾をしています。なので、ジャッカルという説もあるそうです。アヌビスの頭の犬は、スーダン原産のバセンジー犬だとか、オオカミとキツネの中間種であるアビシニアオオカミに近い動物ではないかと考えられているそうですが、エジプトのあるアフリカ大陸にはオオカミはいませんから、本当のところはわからないというのが事実ですね。
いずれにしても、犬やジャッカル、オオカミは葬祭と深く結びついていました。冥府の案内人であるアヌビスとも強く結び抜けられたのは当然の流れと思われます。
アヌビスの仕事 その1
何と言っても【ミイラ作り】でしょう。
彼の出生に関わる豊穣の神オシリスが弟セトに殺され、死体はバラバラにされました。その遺体をつなぎ合わせて包帯で体中を包み、ミイラにしたのがアヌビスと言われています。バラバラにされた体が一つに合わさったことで、オシリスは復活できたとされています。
このエピソードのせいでしょうか、アヌビスは【ミイラづくり職人の守護神】と見なされました。そしてオシリスが治めている冥界では、やって来た死者の生前の罪を天秤で計っているとされています。
前述のとおり、アヌビスしオシリスとネフティスの子とも言われていますが、実の父親の死体をつなぎ合わせ、黄泉の国から還ってくる手伝いをしたことになります。その意味では“親孝行な息子”と磐余のかも知れませんね。
またこのオシリスのミイラ作りに関しては別のエピソードもあります。
実の兄オシリスに恋い焦がれたネフティスは姉イシス(オシリスの妻)の目を盗み(イシスが協力したという説もあります)めでたくオシリスと結ばれました。その結果として身ごもったのですが、不倫関係の子であり、夫セトの嫉妬を恐れました。兄オシリスを惨殺したことでもわかるように、砂漠の神セトは激烈で残酷な性格だったようです。
何とかセトをごまかし、アヌビスを産んだネフティスでしたが、不義が公になるのを恐れた彼女は子どもを捨てたのです。そして乳飲み子を拾い上げて育てたのは、なんとイシスでした。呪術にも秀でていたイシスですから、赤ん坊の正体はお見通しだったことでしょう。
それでも後に豊穣の女神と呼ばれるイシスはアヌビスを優れた神に育て上げました。成長してからは、自分の補佐として信頼を寄せていたようです。
アヌビスの仕事 その2
アヌビスにはもう一つ仕事がありました。それが【冥界で死者の魂を計る】ということです。
亡くなった者たちを冥界へ連れてきたアヌビスは王であるオシリスの裁きの間へと導きます。そこで、死者の心臓と法の女神マアトの羽を天秤にかけるのです。
万が一、重さがつりあわなければ死者には罪があると判断され、死者の心臓=魂が幻獣アメミトに食べられることになります。
マアトは法の女神で頭にダチョウの羽を飾った女性の姿をしています。マアトには【信義】【公正】【善】などの意味があって、太陽神ラーの娘とされることもあります。この羽根がマアトを表しているそうです。
アメミトはワニ、ライオン、カバが混ざり合った姿の幻獣です。まるで怪物ですが、冥界で死者に心臓を見つめ、秤が傾くと死者に罪があると判断されたことになりますから、その死者の心臓を食べてしまう役目をしていました。CLAMPの『聖伝』に登場する帝釈天の愛犬(?)サマラーのようなものだったのでしょうね。
古代エジプト人の死生観
【ホルスの息子たち】の章で紹介しましたが、古代エジプトの人々の考えでは“人間はカー、バー、レン、シュト、イブの5要素で構成されている”と信じていました。
【カー】は、人の生命力、魂のようなもの。【バー】は人の個性、性格。【レン】は生まれた時に与えられた名前。【シュト】は影であり、地面に投影される影ではなく、人の心に潜んでいるものと思われていました。【イブ】は心臓です。
人間は死後、冥界に行くことになりますが、やがて人が生き返って永遠の命を得ると思われていました。その復活のためには、心臓は絶対に失ってはならないものだったのです。
心臓を保つために、死者をミイラにして体を保存するのだとも言われていました。
死者は【カー】と【バー】が一つになった【アク】という究極の形になれれば、永遠の命を得て、楽園で暮らすことができると信じられていました。
【カー】と【バー】と言うことは、その人間の魂と個性ということでしょうか。古代エジプト人が人間の成り立ちをどう考えていたか、窺えるようですね。
死者を見送った人々は、死者が【アク】になれるように墓地を大切に管理し、【アク】になることを祈り、儀式を執り行ったと言います。と言っても、誰もみんな、永遠に楽園で暮らせるわけではありません。楽園へ到達する前には、神々による厳しい【死者の審判】を受けなければならないのです。
死者の審判
ではアヌビスが関係する【死者の審判】について紹介します。
亡くなった人間は全員が冥界に連れて行かれ、審判を受けるために【2つの真理の間】という場所に入れられます。その場所には、言わば裁判官である42人の神と、裁判長である冥王オシリスがいます。この場で、死者は自分の生前の行動について「自分は罪を犯してはいません」と、神々の前で堂々と主張=【否定の告白】を行います。全ての質問に「いいえ」と答えるウソ発見器みたいですね。
さて、この【否定の告白】が終わると、審判が始まります。オブザーバーとして同席するのは書記である知恵の神トトです。
審判では天秤が用意されて、片方に死者のイブ(心臓)が、もう片方に“真実の羽根”と呼ばれる法の女神マアトの羽が乗せられます。この天秤を、アヌビスが厳格に確認すると言います。
死者が真実潔白であるなら、その心臓(イブ)は真理と同重と考えられていましたから、天秤は釣り合うはずです。しかし、死者がウソをついている=罪人だった場合には釣り合いませんから、天秤は傾いてしまうのです。
天秤が傾いた場合は、幻獣アメミトが死者の心臓を喰ってしまうので、楽園行きどころか、もう二度と生まれ変わることさえできなくなってしまうと言われました。
あの世の楽園
さて、審判で潔白と認められた死者は、理想の楽園である【イアルの野】(アアルの野)に入ることが許されます。このイアルの野とは、葦の茂る野原で狩猟ができて、魚を捕り永久に暮らせる理想の場所とされています。
エジプトの人々にとっては母なるナイル川周辺地域こそ地上の楽園と考えていたようです。そのため、死者が行くイアルの野はナイル川三角州とそっくりな場所と想定されていたのでしょう。イアルの野では当然のことながら、病気にかかったり、川の氾濫などの天災は発生しません。
イアルの野では、死者は農業など行う義務がありますが、死者の墓に供えられているウシャブティ像(死者と共に葬った小型のミイラ像)が代わって働いてくれるそうです。現実に、エジプトの墓からウシャプティ像が数多く発掘されています。このウシャブティ像は楽園に言った死者が仕事をしなくても暮らしていけるようにという願いを込めて、人々が死者の棺に一緒に入れたものだろうと推測されています。大きさは違いますが、始皇帝兵馬俑坑の大量の兵馬俑を連想してしまいますね。
ウシャブティ像が死者の代わりに働いてくれるおかげで、イアルの野に着た死者は自由気ままにあちこちを行き来したり、現世の者が供えてくれた食べ物を味わったりしながら、穏やかに暮らせるのだと言います。当時の人々は、この理想の楽園を目指すために、生前に罪を犯さないように自戒し、神を崇めながら暮らしていたのでしょう。
エンタメ世界のアヌビス
※山岸凉子 『イシス』
本人の登場はありませんが、両親とされるオシリスとネフティスの不倫関係が出て来ます。なかなか生々しいエッチシーンなので、この時アヌビスを妊娠したかな?と思わせる勢いです。
4コマ漫画 『イマドキ☆エジプト神』美影サカス
主役の一人として最初から登場しています。
ジャッカルの頭で現代社会に出現し、セリフはありませんが、いきなり行動して回りの度肝を抜くことが多いキャラです。職業病なのか、やたらと包帯を巻いては叱られています。
プレイステーション用ゲーム『ANUBIS ZONE OF THE ENDERS』
10年以上も前に発売されたロボットアクションゲームですが、ストーリー性もよく、声優陣も豪華とあって、人気のあるゲームでした。
アヌビス|ミイラの発祥と死者の魂を計る冥界の神 まとめ
若くして急逝した推理作家北森鴻の初期の長編に『アヌビスの産声』があります。ミステリーの形を取って這いますが、脳死を陰のテーマにしていると言われています。冥界の導き人であるアヌビスにはふさわしい題材ではないでしょうか。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
マイベスト漫画は何と言っても山岸凉子の『日出処の天子』連載初回に心臓わしづかみにされました。
「なんでなんで聖徳太子が、1万円札が、こんな妖しい美少年に!?」などと興奮しつつ毎月雑誌を購入して読みふけりました。
(当時の万札は聖徳太子だったのですよ、念のため)
もともと歴史が好きだったので、興味は日本史からシルクロード、三国志、ヨーロッパ、世界史へと展開。 その流れでギリシャ神話にもドはまりして、本やら漫画を集めたり…それが今に役立ってるのかな?と思ってます。
現在、欠かさず読んでいるのが『龍帥の翼』。 司馬遼太郎の『項羽と劉邦』は有名ですが、劉邦の軍師となった張良が主役の漫画です。 頭が切れるのに、病弱で美形という少女漫画のようなキャラですが、史実ですからね。
マニアックな人間ですが、これからもよろしくお願いします。