吉原の太夫の名前は襲名性です。
その中の一つである「高尾太夫」も、11代目まで続いたといわれています。
歴代の「高尾太夫」の中でも、とくに有名な6代目「榊原高尾」の一生について触れてみましょう。
高尾太夫とは
高尾太夫は、江戸の吉原で11代続いた太夫の呼び名の一つです。
三浦屋に伝わる大名跡であり、襲名制なので、代々受け継がれていくものではなく、名を継ぐのにふさわしい遊女が現れなければ、不在となっていました。
そのため、活躍した時代も、飛び飛びになっています。
それぞれの時代の高尾太夫を区別するために、「仙台高尾」や「紺屋高尾」など見受け先の土地名や、屋号、名字などが加えられています。
ちなみに、「仙台高尾」は2代目で、仙台藩主に身請けされるも、意に逆らって吊るし斬りされたという壮絶な逸話を持っています。
「紺屋高尾」は5代目で、染物屋である紺屋九郎兵衛に身請けされ、量産の染め物で一世を風靡したと言われています。
古典落語のモデルともなった人物です。
歴代の高尾太夫は、藩主や大店の主など、裕福な客に身請けされるケースが多いことが特徴です。
無事に身請けされて、通常の生活に戻れた吉原の遊女は、とても少なかったのです。
6代目「榊原高尾」になるまで
高尾太夫の6代目である「榊原高尾」は、もとは花屋の娘だったと言われています。
重願寺の近くで、父親を手伝いながら、花屋の看板娘をしていました。
あまりの美貌が評判となり、江戸中の男性が、花を買うことを口実にやってきたと言います。
その人気ぶりは凄まじく、重願寺の墓地は、口実として購入された花で溢れかえっていたとされています。
美人見物が目的だったとはいえ、花を捨てずに他人の墓地に供える精神は、さすが江戸っ子と言ったところでしょうか。
重願寺の墓は、江戸の新名物になるほどだったと言われています。
しかし、花屋を営んでいた父親が、病に倒れたことがきっかけで、吉原に身売りすることになります。
江戸中の男性の評判をさらった美貌で、たちまち売れっ子となり、6代目「高尾太夫」を襲名しました。
高尾太夫の稼いだ金で、父親も病床から回復します。
しかし、皮肉なことに看板娘が不在となった花屋では、売上が期待できるべくもなく、廃業を余儀なくされてしまいました。
「榊原高尾」の呼び名の由来は
6代目の高尾太夫が、「榊原高尾」と呼ばれるのは、姫路藩の藩主であった「榊原政岑(さかきばらまさみね)」に身請けされたためです。
正室をすでに亡くした身であったため、約2千両もの大金を支払い、側室として迎えました。
ちなみに、江戸時代の1両は、10万円ほどの価値があったと言われています。
榊原家といえば、初代が徳川四天王の一人として数えられ、従五位下式部大輔という官位を得たほどの名門でした。
第三代当主である榊原政岑を支えた、貞淑で賢いと女性だったと伝えられています。
ちなみに、遊女を経て、大名の側室まで成り上がった女性は、榊原太夫ただ一人です。
徳川吉宗からお叱りを受けた姫路藩主
榊原高尾が身請けされたのは、8代将軍徳川吉宗が進めていた「享保の改革」真っ只中のことでした。
幕府はもとより、一般庶民の間でも、華美な催しや贅沢は禁止されるほど「質素倹約」が義務付けられていた時代です。
吉原で太夫を指名するだけでも莫大な金額が必要だったうえに、身請けまでした榊原政岑は、危うく大名の身分を剥奪されるほどのお叱りを受けました。
幸いなことに、家臣の弁明のおかげで越後高田へ左遷され、隠居することで落ち着きました。
当然、榊原高尾も高田に同行しました。
家臣の弁明が通った理由は2つあるとされています。
1つ目は、初代が家康公からもらった「榊原に借りがある」という旨の神誓証文を、家臣が活用したという理由。
2つ目は、政岑の亡くなった乳母の、生き別れの娘が榊原高尾だったという泣き落としです。
乳母を弔うために、遊女の身分から救いあげたと説得しました。
あまりにも堂々とほら話を広げ、嘘泣きまでの演技が入ったため、詰問役が譲ったという話です。
途中で話を聞いているのが、馬鹿馬鹿しくなったのかもしれませんね。
人生、開き直った者勝ちです。
榊原政岑は心を入れ替えたのか、越後高田では倹約を努め財政を安定させたと言われています。
善政を敷き、民から慕われますが、わずか36歳という若さでこの世を去ることになりました。
榊原高尾は、政岑の死後、もう一人の側室である「お岑の方」に呼ばれて江戸に戻りました。
上野池之端にあった榊原下屋敷で、政岑の菩提を弔いながら余生を過ごしたと言われています。
68歳で亡くった榊原高尾は、榊原家の菩提寺である、池袋の本立寺に弔われています。
今でも、本立寺にある一族の墓石に、「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」の名で刻まれた名前を確認することができます。
榊原高尾 まとめ
吉原の遊女としは珍しく、身請け後も落ちぶれることなく、長生きすることができた榊原高尾。
後に続く、多くの遊女にとっての希望の星だったのかもしれません。
海外に在住しながらライティングしています。