美貌と才覚で、遊郭を華やかに彩った太夫。
しかし、籠の鳥であるため、遊女を辞めたあとの身の振り方さえ自由にならなかったと言います。
仙台藩主に見初められて遊郭を出たにも関わらず、非業の死を遂げたとされる、二代目高尾太夫こと「仙台高尾」について詳しく見てみましょう。
高尾太夫とは
高尾太夫は、江戸時代最大の遊郭である吉原で見世を構えた、三浦屋に伝わる称号です。
襲名制であるため、名乗るにふさわしい才色兼備の遊女に、代々受け継がれてきました。
総勢、11名の女性が、高尾太夫を名乗ったと言います。
「吉野太夫」「夕霧太夫」と共に、三名妓の名前をほしいままにしました。
歴代の高尾太夫の中には、大名の側室にまで成り上がり、大往生した女性も存在します。
しかし、安定の余生を過ごした高尾太夫もいれば、ただ一人の男性に心を捧げて、非業の死を遂げた高尾太夫もいました。
「万治高尾」または「仙台高尾」と呼ばれた、二代目高尾太夫です。
鳥取藩士に操を捧げた二代目
二代目高尾太夫は、歴代の太夫の例に漏れず、高い教養を身につけた女性でした。
書に堪能で、和歌や俳諧にも通じていたと言われています。
何よりも特徴的だったのは、義に厚く、金にものをいわせる客には、目もくれなかったことです。
そんな二代目高尾太夫らしいエピソードが、万治年間の仙台藩三代目藩主との間に起こった身請け話です。
太夫を見初めた藩主伊達綱宗は、身請けのために太夫を口説きますが、色よい返事がもらえません。
それもそのはず、高尾太夫には、将来を誓いあった相手がいたのです。
しかし、鳥取藩の藩士にすぎなかったため、400両とも言われた身請け金の相場を払えるはずがありません。
年季が明けて、太夫が自由の身になるときを待っていたのだと思われます。
そこをお金でゴリ押ししたのが、伊達綱宗だと言われています。
太夫が、身請けの条件として、衣装や装身具も含んだ、自分の体重と同じ重さだけの金額を提示しました。
身請けを断るための口実としたかったのでしょう、ありったけの衣装と装身具を纏った太夫の値段は、3000両という金額にものぼりました。
現代で換算すれば、5億円にもなろうかという大金ですが、伊達綱宗は承諾します。
お金の力に屈した形となった太夫ですが、想い人に操を捧げ、身請けされた後も伊達綱宗と枕を交わすことを拒んでいました。
しびれを切らした藩主に幽閉され、1日拒むごとに1本の指を切り落とすと言われても、受け入れることはありませんでした。
そのため、万治2年12月に、隅田川を下っていた船の中で、逆さ吊りにされ、斬り殺されたと伝えられています。
高尾太夫 まとめ
悲劇のラブストーリーとなった、二代目高尾太夫と仙台藩主の関係ですが、実は俗説であるとも言われています。
また、ロマンスがあったという説も存在するため、本当のところが気になりますね。
海外に在住しながらライティングしています。