遊郭の様子

花魁と太夫は、どちらも江戸時代の遊女を表す呼び名ですね。
この他にも、禿や新造など、呼び名には、さまざまなバージョンがあります。
呼び分けの基準には、遊女の身分と地位が大きく関わっていたと言われています。
それぞれの細かい違いについて見てみましょう。

花魁と太夫は身分が異なる

遊女を表す呼び名として、最も有名なのが、「花魁(おいらん)」または「太夫(たゆう)」だと考えられます。
どちらも同じものとして捉えられそうですが、大本を辿ると、それぞれ身分が異なっていたことが分かります。

花魁は高級娼婦

花魁は、春を売る高級娼婦に対する呼び名でした。
江戸の吉原において、最高クラスの美貌と秀でた技能を兼ねそなえた、遊女に対して用いていました。
狐や狸のように尻尾がなくとも、磨き上げた技術で男性を騙すという意味の「尾がいらない=おいらん」が語源となっていると言われています。

また、妹分となる遊女から「おいらの姉さん=おいらん」と呼ばれていたことが語源だという説もあります。
どちらにしても、客を手玉に取る一流の技術と、妹分からの尊敬を勝ち取っていたことが窺われます。

太夫はトップクラスの芸姑

太夫は、舞踊や音曲といった芸に秀でた、トップクラスの芸姑に対する呼び名でした。
高い教養を身に付けた女性にだけ許された称号です。
江戸時代の初期(1600年代)に誕生した、現在の歌舞伎の原型ともなる「おんな歌舞伎」の人気役者に用いられたのが始まりだと言われています。

しかし、当時の芸姑も遊女のような側面を持っていたことに加え、人気の遊女にも高い教養が求められたことから、しだいに高級遊女にも「太夫」の称号が使用されるようになったと伝えられています。

花魁は消え太夫は残る

 

花魁

遊女に「太夫」という身分が誕生したのは、遊郭が整えられてからのことです。
江戸時代の遊郭といえば、京都の島原や、江戸の吉原が有名ですね。
これらの遊郭は、すべて江戸時代に区画を区切られ、整えられたものです。

しかし、江戸の吉原において、太夫と呼ばれる遊女は、宝暦年間(1751~1764年)に消滅してしまいます。
太夫の主な客層は、公家、大名、旗本といったやんごとなき身分の人々でした。
しかし、江戸中期に風紀取締が厳しくなったことが原因で、太夫の相手となれる身分の客層が離れていってしまったのです。

太夫が消えてしまった後の吉原で、高級遊女に対して用いられた呼び名が、「花魁」でした。
つまり、時代的には花魁のほうが歴史は浅いということになりますね。

太夫が消えたあと、遊郭の顔としてもてはやされた花魁ですが、明治時代に入ってから衰退が進みます。
そして、1954年の売春防止法の施行から遊郭の廃止が決まるとともに、花魁も歴史の流れの中に消えていってしまいました。

しかし、京都の島原では、遊郭の中で太夫の称号は使われ続けていました。
また、遊郭が廃止されたあとも、芸姑としての「太夫」は存在し続けました。
現在の京都の島原にも、数名の太夫が存在し、お座敷にあがっています。
太夫であるだけに格式が高く、一見さんお断りの世界となっているようです。

遊女の地位は

YouTube動画出典:2016年 一葉桜おいらん道中 「江戸吉原粋花街乃賑」 座敷の場

吉原で最高位の遊女として扱われたのが花魁ですが、その他の遊女は、どのような地位と呼び名を与えられていたのでしょうか。

遊郭で働く女性の多くは、幼いころに親元から買い取られてやってきます。
買い取り金額は、遊女の借金となり、「年季」という返済期間が設けられました。
借金を完済しない限り、遊郭の外には一歩も出られないきまりです。

また、買い取られたからといって、全員が花魁になれるとは限りませんでした。
店主に美貌や才覚などを見込まれ、幼いうちから芸事、古典、書道、囲碁といった高い教養を身につけなければ、道は開けなかったのです。

遊女になるまでの地位

花魁となるための教育を受ける、10歳前後の女の子は、「禿(かむろ)」と呼ばれます。
遊女として客をとるわけではなく、花魁の身の回りの雑用が主な役割でした。
雑用をこなしながら、さまざまな教育を受けていたんですね。

成長した禿は、15~16歳になるころに、「振り袖新造(ふりそでしんぞう)」と「留め袖新造(とめそでしんぞう)」という地位に分けられていきます。

振り袖新造は、将来有望な花魁候補のことです。
留め袖新造は禿から花魁への出世は無理だと判断された少女のことを指します。
また、10代を過ぎてから買い取られ、禿としての修行を積んでいない少女も、留め袖新造として扱われました。

どちらの新造も、まだ遊女見習いですが、地位による格差は存在しました。
基本的に、振り袖新造は、花魁として水揚げされるまでにお客をとることはありませんでした。
対して、留め袖新造は、お客をとる必要がありましたが、一人前の遊女としては扱われていませんでした。

遊女となってからの地位

遊女の地位は、自らの値段に直結します。
地位が高ければ高いほど、お客が買う時間に高値がつく仕組みです。
最高位の花魁ともなれば、茶屋の席料、料理代、揚げ代などを含めて、一時の楽しみに数十万は吹き飛んだと言われています。

吉原に太夫が存在していたころは、「太夫→格子(こうし)→端(はした)→局(つぼね)→散茶(さんちゃ)→切見世(きりみせ)」といった順に格付けされていました。

吉原から太夫が姿を消した後は、新しい格付けが誕生します。
散茶を最上位にして、さらに細かく区分されていったのです。
散茶の中でも「呼び出し→昼三(ちゅうさん)→附廻(つけまわし)」の順に地位が高く、花魁として扱われるクラスということになります。

附廻から下は、「座敷持ち→部屋持ち→局」と地位が下がっていきます。
花魁として扱われることはない、格下の遊女たちで、一晩あたり1000円ほどの値段でした。
恐ろしいまでの格差ですね。

年季が明けた遊女の社会的地位は

遊郭の様子

吉原の遊女の年季は、27歳ほどで明けるとされています。
晴れて自由の身となりますが、若いうちに身売りされた立場では、普通の生活を送るための手段も常識も持ち合わせていないことがほとんどでした。
生家に帰ろうにも、遊女となった身内を受け入れる家は、少なかったと言われています。

そのため、吉原から解放された女性の辿る道は、大きく3つに分かれていました。
1つ目は年季明けの前に身請けされ、裕福な常連客の妻や妾となること。
2つ目は、そのまま若い遊女の世話役として吉原の中で働き続けること。
3つ目は、年季が明けた後に、吉原以外の場所で遊女として働き続けることです。

しかし、実際には年季が明けたり、身請けされたりするまでに、梅毒などの性感染症で命を落とす遊女も少なからず存在しました。
また、最下位の遊女でも150万円ほどの身請け金を必要としていたため、身請けされて世帯を持つ女性も一握りだったと言われています。

吉原に残ろうにも、年季が明けた女性すべてを受け入れるほどの枠もなかったことでしょう。
世話役として優れていそうな女性だけが残り、それ以外の遊女は、吉原の外で体を売り続けることになります。

「吉原」という政府公認のブランドも失い、非公認の売春宿や、売春宿にも所属しない夜鷹(よたか)になるケースがほとんどでした。
社会の底辺へと落ちぶれることも珍しいことではなかったようです。

花魁と太夫の違い|遊女の身分と地位 まとめ

華やかですが過酷な世界に身をおいた、花魁と太夫。
花魁という身分は消滅しましたが、芸姑としての太夫は、現代にも息づいています。
伝統技能を受け継ぐ身として、社会的地位も申し分ないようです。