またの名を多聞天とも言う毘沙門天は戦神として武将達に信仰されてきました。
特に有名なのが「越後の龍」と呼ばれた戦国武将上杉謙信ではないでしょうか?
NHK大河ドラマでは何度も主人公や重要人物として取り上げられた上杉謙信。
彼が深く信仰した毘沙門天について今回は紹介したいと思います。
毘沙門天とは?
ある一定の年齢以上の方がお正月の縁起物として即連想するのが【七福神】ではないでしょうか?
現代でも心の拠り所、または平安や幸福を招いてくれるものとして信仰されている七福神。
その中には弁財天や大黒天などがありますが、毘沙門天もその一人なのです。
東大寺戒壇院に毘沙門天を含む四天王がありますが、仏教を信仰する人々を守っているのです。
元々はインドの古代神話の神だった毘沙門天はヒンディー教ではなぜか宝石の神とされました。
仏教に帰依すると、仏法を守護する四天王および十二天の一尊とされ、東方を守る持国天、西方を守る広目天、南方を守る増長天とともに、毘沙門天は北方を守る神となりました。
要するに東西南北を守るこれらの神が四天王であり、毘沙門天はその一神として位置付けられたのです。
また、毘沙門天の別名は多聞天ですが、仏が説法する道場に常に同席し、説法を聴いていることから【多くのことを聞く=多聞天】と呼ばれるようになったそうです。
四天王の一将として祀られる時は【多聞天】、単独で一尊だけ祀られる時は【毘沙門天】と呼ばれるのです。
毘沙門天は憤怒の表情をして、左手には宝塔、右手には金剛神を握りしめて、足下に邪鬼を踏み付けているのが一般的な姿です。
毘沙門天は信貴山朝護孫子寺が有名ですが、京都にある鞍馬寺を始め、信貴山千手院や山科毘沙門堂、本山寺など、多くのお寺でまつられているのです。
史上の有名人と毘沙門天
聖徳太子と信貴山
奈良県信貴山にある信貴山朝護孫子寺は、全国の毘沙門天を祀る社の総本山とされています。
その【縁起】による由来は以下のとおりです。
用命天皇の2年(西暦587年)のこと聖徳太子が朝敵物部守屋を討伐するために戦勝祈願にこの山に来ると、天空の遙か彼方に毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授けてくれたというのです。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻と寅が三つ重なる日だったとか。
聖徳太子は、そのご加護により、見事敵を滅ぼすことが出来たと伝わっています。
内乱が治まった後、聖徳太子が自ら毘沙門天の尊像を刻み、伽藍を創建し【信ずべき山尊ぶべき山=信貴山】と名づけたと言われています。
摩利支天の章でも物部征伐と聖徳太子の話を紹介しましたが、古代のスーパースターが関わっているというのは箔がつきますし、人々の信仰を集めやすいのではと思われます。
その後、延喜2年(902)、醍醐天皇は自身の病気快癒に深謝して「朝護孫子寺」の勅号を賜りました。
それ以来、信貴山毘沙門天は虎に縁のある神として広く信仰されるようになったのです。
鑑禎上人と鞍馬寺
また、牛若丸(源義経)が修業したことで有名な鞍馬寺の由来としてこんな話が伝わっています。
鑑真和上の高弟・鑑禎上人が霊夢で白馬に導かれ鞍馬山に登ったのですが、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられたそうです。
それも寅の月、寅の日、寅の刻と寅が三つ重なる日でした。
命拾いした鑑禎上人はその場に草庵を結び、毘沙門天を祀りました。
当時、寅と毘沙門天の関係は広く知られていたのでしょうね。
【寅】に因んで鞍馬寺の仁王門や本殿金堂の前には、神の使いとして、一対の虎像が置かれています。
いずれにしても、鑑禎上人の草庵が鞍馬寺の開創と言われています。
奈良時代の終盤の光仁天皇治世下の宝亀元年(西暦770年)のことでした。
毘沙門天と百足
軍神であり財宝の神でもある毘沙門天。
そのお使いがなんで百足【むかで】なのか、理由はわかりません。
ただ百足【むかで】は「毘沙門天の教え」とも言われるのです。
その理由は「たくさんの足(百足)がある。しかし、たった一足の歩調や歩く方向が違うと前進できなくなってしまう。困難に立ち向かうためには全員が心を一つにして物事に臨むようにという教えなのだ」ということなんだとか。
武田信玄などの戦国武将は、毘沙門天が武神でかつ戦勝の神であることを合わせて、お使いの百足は【一糸乱れず果敢に素早く前に進み、決して後ろへ退かない(と言うか、後退できない)】ということが戦場では有利になると考えたのでしょう、武具甲冑や旗指物に百足の図を使用したと言われています。
また、古代インドでは毘沙門天は宝石の神とされていたこと、百足は足が多いので、おあし(銭)が沢山集まるので金運を呼ぶと考えられ、商人や芸人の間では「客足、出足」が増え繁盛すると言われ、そちらの面でも人々の信仰を集めたのでした。
鉱山師や鍛冶師にも信仰されたとのことですが、鉱脈の形や鉱山の採掘穴は岩盤を避けて掘り進むので、どうしてもくねくねと曲がってしまいますよね。
その形が百足に似ているからと言われています。
上杉謙信と毘沙門天
さて、出だしでも紹介しましたが、日本史上一番の毘沙門天フリークと言えば、やはりこの人。
越後の龍と呼ばれた上杉謙信(1530~1578)ですよね。
川中島の戦いで有名ですが、甲斐の武田信玄とともに戦国時代の屈指の名将として有名な謙信は源義経を手本とした天才的戦術であの織田信長さえ叩きのめしているのです。
「速きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」の風林火山で有名な武田信玄も毘沙門天を信仰していたそうですが「我こそは毘沙門天なり!」と宣言したという上杉謙信の異常なまでの愛情(?)には敵いませんよね。
上杉謙信の毘沙門天への入れ込みようは大変なもので、自らの居城だった春日山城に、わざわざ“毘沙門丸”と呼ばれる区域を造ると毘沙門堂を置き、毘沙門天画像を祀ったそうです。
出陣に際してはこの毘沙門堂に籠もって戦勝を祈願し、ひたすら毘沙門天の神意を得ようとしました。
そして神意を得たと感じると、神前に供えた花瓶の水を水筒(腰筒)に入れ【毘】と一文字書かれた軍旗を先頭に出陣したと言います。
戦場においては、毘沙門天の加護を信じて兜をつけず、白布で頭を包んだ僧衣の姿で陣頭指揮を取りました。
川中島の戦いでの信玄との一騎打ちのあのスタイルですね。
言わば捨て身で戦場にいた謙信ですが、不思議と矢玉が当たらなかったと言います。
毘沙門天のご加護が確かにあったのかも知れません。
こんな奇跡が重なっていくと、彼は自分自身を毘沙門天の化身と考えるようになったようです。
家臣に言うには「我あればこそ毘沙門天も用いられる。我なくば毘沙門天もありえない。我を毘沙門天と思い、我が前で神文(誓約)せよ」
要するに「私がいるから毘沙門天も活躍できる。私がいなければ毘沙門天もない。私を毘沙門天と思って、私の目の前で誓約しなさい」という脅迫と言うか、自己陶酔による忠誠の押しつけでした。
とは言え、戦場で傷一つ負わないという加護が実際にあるのですから、上杉謙信=毘沙門天に対する崇拝は兵士の間に広まりました。
彼らは謙信が陣頭に立ち【毘】の軍旗が翻れば、絶対負けることはないと信じて勇猛果敢に戦ったそうです。
NHK大河ドラマでの上杉謙信役は様々な役者が演じていますが、筆者が一番強く印象に残っているのは2007年『風林火山』でのGacktが演じた謙信です。
ストイックで浮世離れした長髪の謙信像は今までのイメージとかけ離れ、最初はなんだこりゃでしたが、毘沙門天堂にこもり祈る姿に本物の謙信もこういう人だったのかも、と思うようになりました。
ちなみに2009年『天地人』の阿部寛謙信は常識人過ぎて物足りなかったです(笑)
毘沙門天~越後の龍が信仰した戦の神と虎と百足の由来~ まとめ
毘沙門天は七福神の中の唯一の女神弁財天(琵琶を抱いている女性で音楽と芸の神)と夫婦とも言われています。
戦神の心を癒すのは、愛妻の美しい琵琶の音だったのかも、と考えるとちょっと楽しくなりませんか?
他の神様で取り上げたCLAMPの『聖伝』にも毘沙門天は凛々しい武人として登場します。
妻吉祥天との仲は冷え切っていて家庭の安らぎはなく、帝釈天の部下としてひたすら戦に明け暮れる日々。
しかし、実は彼が残虐な帝釈天に付いたのは愛する吉祥天を守るためだった…
無駄とはわかっていますが、こちらの毘沙門天にも癒しがあったらなあ、と思う筆者でした。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
マイベスト漫画は何と言っても山岸凉子の『日出処の天子』連載初回に心臓わしづかみにされました。
「なんでなんで聖徳太子が、1万円札が、こんな妖しい美少年に!?」などと興奮しつつ毎月雑誌を購入して読みふけりました。
(当時の万札は聖徳太子だったのですよ、念のため)
もともと歴史が好きだったので、興味は日本史からシルクロード、三国志、ヨーロッパ、世界史へと展開。 その流れでギリシャ神話にもドはまりして、本やら漫画を集めたり…それが今に役立ってるのかな?と思ってます。
現在、欠かさず読んでいるのが『龍帥の翼』。 司馬遼太郎の『項羽と劉邦』は有名ですが、劉邦の軍師となった張良が主役の漫画です。 頭が切れるのに、病弱で美形という少女漫画のようなキャラですが、史実ですからね。
マニアックな人間ですが、これからもよろしくお願いします。