トロイア戦争では数多くの女たちが悲運に見舞われました。
勝利したギリシャ側にもミュケナイは始めとした悲劇が起こりましたが、敗者であるトロイア側の方がもっと悲惨だったことは言うまでもありません。
今回はトロイア王家ヘクトルの妻アンドロマケを紹介します。
トロイア軍総大将の妻
ギリシャ軍を迎え撃ったトロイア軍の総大将が、プリアモス王の長子ヘクトルです。
武勇に優れていただけでなく、器量の大きい人物として知られ、ホメロスがトロイア戦争を描いた叙事詩『イリアス』では【兜きらめくヘクトル】と称されています。
弟パリスが人妻ヘレネと駆け落ちし、トロイアを戦争に導いてしまったときも、パリスを非難してもヘレネを非難することはなかったと言われています。
この態度は【紳士】という感じがします。
トロイア軍の期待を一身に背負うヘクトルを妻アンドロマケは複雑な思いで見つめていたのではないかと思われます。
というのは、この夫婦は年齢差がかなりあったと思われ、戦争終盤にアンドロマケが抱いていた一子アスティアナクスはまだ幼児だったのです。
父王を始め、人々の期待と重責は全て夫に集まります。
それを冷静に受け止め対処するヘクトルに誇りを感じながらも、幼児を抱えた若い妻は「もし、夫に何かあったら…トロイアも終わってしまうのではないか」と不安に思っていたことでしょう。
アンドロマケの不安は的中してしまいました。
神の子である英雄アキレウスは身勝手な理由で親友パトロクロスを失います。
仇とばかりヘクトルに打ちかかるアキレウス。
武勇に優れたヘクトルでしたが、結局は命を落としてしまいます。
この時アキレウスは英雄に似つかわしくない行いをしました。
「死者を辱めず」という戦場の掟と、ヘクトルの末期の願い「遺体を父に返してくれ」を踏みにじり、ヘクトルの遺体を戦車に結びつけるとトロイアの城壁前を引きずり回したのです。
アンドロマケはその無残な光景を目撃していました。
ヘクトルは死にましたが、プリアモスにはパリスを始め、他の男子がまだ多くいました。
しかし、ヘクトルの不在はトロイア軍の意気を消沈させずにはいられなかったのです。
もちろんアスティアナクスを抱きしめたアンドロマケは絶望の淵に沈んだことでしょう。
大軍を擁しながら、ヘクトル一人に頼らざるを得なかったことが栄華を誇ったトロイア敗因のひとつだったと思われます。
子を奪われる
10年に亘ったトロイア戦争はトロイアの落城で終わりました。
城内の女子共は一箇所に集められ、処遇を決められます。
アンドロマケの手には何もわからないアスティアナクスがしっかりと抱かれていたことでしょう。
プリアモスの妻ヘカベーは既に老女の域でしたが、ギリシア軍の参謀オデュッセウスの手にゆだねられ、王女カッサンドラはアガメムノンの妾としてアルゴスへ連れ去られることになりました。
もう一人の王女、清楚な美貌で有名だったポリュクセネーはアキレウスへの生け贄として殺されました。
アンドロマケの前に立ったのはまだ若い青年でした。
その青年は無言でアスティアナクスに手を伸ばします。
離すまいとする母親の腕からいとも簡単に幼児を奪い取った青年はそのまま城壁の上から幼児を落としたのでした。
夫を失い、たった一人のわが子を殺されたアンドロマケ。
彼女を妾として望んだのはアスティアナクスを殺した青年。
彼はアキレウスの息子ネオプトレモスでした。
アンドロマケは父に夫を殺され、その息子に我が子を殺された上、息子の妾に落とされたのです。
彼女と共に、ヘクトルの弟ヘレノスをもネオプトレモスは奴隷として与えられました。
逆転
ネオプトレモスはアンドロマケを国に連れ帰ります。
彼はやがて妻を迎えますが、それはヘレネの一人娘ヘルミオネでした。
トロイア戦争の元凶となったヘレネ、その娘を正妻として迎えるネオプトレモスにはアンドロマケへの気遣いなど思いも寄らぬことだったでしょう。
アンドロマケの心は幾重にも涙と血を流していたと思われます。
このヘルミオネは母親似の美貌で、しかも自分勝手な女性だったようです。
アンドロマケはネオプトレモスとの間に男子をもうけましたが、ヘルミオネはなかなか身ごもる気配がありません。
それを逆恨みした彼女はアンドロマケと息子を暗殺しようとしたのです。
ヘルミオネがアンドロマケに向ける嫉妬心、仇に身を任せるアンドロマケの屈折した心を若いネオプトレモスが上手くあしらえたはずはありません。
彼は若くして母親を失い、トロイア戦争という男の世界で成長しました。
女性同士の葛藤など考えたくもなかったのでしょう。
ところでヘルミオネはヘレネの娘ですから、アガメムノンの息子オレステース(母親クリュタイムネストラを殺した)とは従兄にあたります。
実はこの二人は幼いときからの婚約者でした。
双方の親が兄弟姉妹ということから結ばれた縁だったのでしょう。
ネオプトレモスの態度に腹を立てたヘルミオネはオレステースに連絡を取り、密かに逢瀬を重ねたと言われています。
このあたりの行動はまさにヘレネの娘といった感じですね。
オレステースはヘルミオネに応え、婚約者を帰すようネオプトレモスに訴え、二人は決闘することになります。
その結果、ネオプトレモスは倒され、ヘルミオネはオレステースの元に走ります。
若い主人を失ったアンドロマケでしたが、彼女には救いの手が残っていました。
ヘクトルの弟ヘレノスと結ばれたのです。
アンドロマケ~トロイア軍総大将ヘクトルの妻~ まとめ
頼りの夫と幼い我が子を殺され、仇の妾として生きなければならなかったアンドロマケ。
屈辱的な日々を過ごしたことでしょう。
しかし、晩年は穏やかな生活を送れたようです。
彼女を考えると筆者には中島みゆきの名曲『EAST ASIA』の一節が浮かびます。
… どんな大地でもきっと生きてゆくことができる …
そう、アンドロマケはタンポポの綿毛のように風に流されても、落ちた場所にしっかりと根を張り、慎ましく、しかしたくましく生きぬいていく女性ではなかったかと思うのです。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
マイベスト漫画は何と言っても山岸凉子の『日出処の天子』連載初回に心臓わしづかみにされました。
「なんでなんで聖徳太子が、1万円札が、こんな妖しい美少年に!?」などと興奮しつつ毎月雑誌を購入して読みふけりました。
(当時の万札は聖徳太子だったのですよ、念のため)
もともと歴史が好きだったので、興味は日本史からシルクロード、三国志、ヨーロッパ、世界史へと展開。 その流れでギリシャ神話にもドはまりして、本やら漫画を集めたり…それが今に役立ってるのかな?と思ってます。
現在、欠かさず読んでいるのが『龍帥の翼』。 司馬遼太郎の『項羽と劉邦』は有名ですが、劉邦の軍師となった張良が主役の漫画です。 頭が切れるのに、病弱で美形という少女漫画のようなキャラですが、史実ですからね。
マニアックな人間ですが、これからもよろしくお願いします。