ヤマトタケルの冒険(ゆうきまさみ)市川猿之助(三代目・現猿翁)はスーパー歌舞伎という、今までの歌舞伎の概念を打ち破る跳んだり跳ねたり、アクロバテックな舞台で世間の耳目を集め、大ヒットに結びつけました。

そのスーパー歌舞伎の題材となったのが、梅原猛原作による『ヤマトタケル』でした。

また、かなり昔のことですが『月刊OUT』というアニメパロディ専門誌があったのをご存じでしょうか?

『機動警察パトレイバー』で有名なゆうきまさみはガンダムのパロディマンガでこの雑誌からデビューしたのですが、独特の視点から書いた『ヤマトタケルの冒険』が掲載されたことがあります。

かなりエロいシーンもあり、ゾッとする場面もありましたが、『古事記』『日本書紀』とは全然違う新しい切り口のヤマトタケル像だったと記憶しています。

機会があれば一度読んで欲しいマンガです。

 

オウスによる兄オオウスの殺害

ヤマタケ(モンスト)日本初の史書『古事記』によると第12代景行天皇は現在の奈良県桜井市にあった纒向の日代宮で政を行ったと言われています。

当時の権力者の常として正妻の他に多くの側室がいた彼には80人もの男子がいたそうですが、その中に身分の高い妃腹に生まれたオオウスとオウスという同母兄弟がいました。

あるとき父天皇は美女と名高い二人の娘兄比売、弟比売を後宮に入れようと考え「二人を連れてくるように」とオオウスに命令したそうです。

二人を迎えに行ったオオウスですが、姉妹の美しさにのぼせたのか、姉妹が「権力者でも、老人よりあなたの方がいい」と訴えたのかわかりませんが、オオウスは二人を自分のものにしてしまい、父には別の娘達を兄比売と弟比売として差し出したのでした。

景行天皇はそのことに気がついたのですが、オオウスをかわいがっていた彼は「仕方ない」と飲み込んで我慢していたとか。

要するに【バカな子どもほどかわいい】ということなんでしょうね。

息子は父親の思いを知ってか知らずか、父天皇と顔を同席することになっていた食卓にも出席せず、二人の美女相手に自由勝手な生活を送っていたようです。

そんな日々が続いたある日、長いこと朝夕の食事に姿を見せないオオウスに我慢できなくなった天皇は同母弟のオウスに「おまえの兄の姿を長いこと見ていない。よく諭して、ここに連れて来なさい」と命じました。

しかし、その後5日経ってもオオウスは姿を見せません。

命令したオウスはシラッとして姿を見せているのに。

不審に思った父はオウスに「なぜ兄は出てこないのだ」と問い詰めます。

するとオウスは「いえ、兄上には伝えましたが、従おうとしなかったので、厠で待ち受けて捕まえ、兄を絞め殺し、手足をバラバラにして袋に入れて投げ捨ててしまいました」と平然と答えたと言います。

オウスから見れば、天皇である父に従わない兄への当然の罰だったのでしょう。

父も認めてくれると思っていたかも知れません。

しかし、景行天皇は内心震え上がりました。

息子のあまりにも荒々しく残酷な性格を恐れたのです。

「おまえの勇猛さで西方を討伐して参れ」西方(現在の九州)にいるという二人のどう猛な王クマソタケルの討伐を命じると、時を置かず派遣することにしました。

 

熊襲討伐 ~ヤマトタケルの由来~

日本武尊熊襲討伐(月岡芳年)父天皇の命令を受けたオウス。

本人とすれば不本意な都落ちと感じたことでしょう。

愚痴をこぼしたかったのか、彼は伊勢の斎宮となっていた叔母倭比売を訪ねます。

そこで倭比売は甥にプレゼントを渡します。

なぜか女物の衣装と剣でした。

剣はともかくどうして女物の衣装なのか、その謎は熊襲の地に行って解けました。

「英雄色を好む」との言葉通り、二人のクマソタケルは無類の女好きだったのです。

斎宮倭比売にはそんなニュースが伝わっていたのかも知れませんね。

クマソタケルの屋敷では厳重に警備を固めていましたが、ちょうど宴の準備中でした。

オウスは、みずら(当時の男子の髪型で聖徳太子と二王子図の二王子の髪型です)をほどき女性のように長く垂らした上、倭姫からもらった女物の衣装をまとい、人の出入りに紛れて屋敷内へ入り込みました。

いくら酒が入っていたとは言え、少年(青年?)を美少女と見間違うクマソタケル達もなんだかなと思いますが、それほどオウスの化け方が上手だったということでしょうか(笑)クマソタケルはオウスの少女を気に入りそばに引き寄せて酌などさせて楽しんだようです。

オウスは隙を見て懐に隠してあった剣で兄の方のクマソタケルの胸を刺し、続いて弟クマソタケルは背中から斬りつけました。

突然の襲撃に動揺するクマソタケルは命乞いをし、オウスに何者かと尋ねます。

オウスは大和の景行天皇(当時は別の名前です)の息子オウス皇子と名乗り、天皇の命により討伐に来たと話しました。

すると「西方には我々二人以外に、勇猛で強い者はいない。

しかし大和の国には我々以上の勇猛な男がいたはずだ。

そこで自分の名前をあなたに献上する。

これ以後はヤマトタケルと名乗らんことを」と言ったのです。

自分より強い者に自分の名前を捧げる-それが降伏の作法だったのかもしれませんね。

ともかく、言い終えたクマソタケルにオウスはあっさりととどめを刺しました。

父の命令通りクマソタケルを倒したのです。

この結果、オウスはヤマトタケルと呼ばれるようになります。

これがヤマトタケルの由来です。

 

父の非情な命令

九州のクマソタケルを倒したオウス=ヤマトタケルは大和への帰国の途中、出雲へ立ち寄りました。

方向的には合ってますが、どう考えても回り道ですよね。

なぜ出雲に行ったか理由が不明ですが、ヤマトタケルはここで出雲の王出雲建を倒そうとします。

ますますもって、意味不意な行動です。

会ったこともない、名前すら初めて聞く人物を倒そうとするヤマトタケルですが、なかなか賢い方法を取ります。

まずは出雲建に会い、親しくなり友人の座に納まります。

油断させて着々と相手を殺す準備を整えていたというのも、恐ろしいですよね。

ヤマトタケルはイチイの木でニセモノの剣を作り、自分のものとしていつも持ち歩いていました。

機が熟したと悟ったとき、そのニセモノの剣を持って出雲建と河で水浴びをしたのです。

水から上がると「刀を交換して手合わせ願いたい」と申し出ました。

出雲建はその申出を受けました。

そして剣を合わせたのですが、ヤマトタケルの剣はニセモノですから、それを持った出雲建はかないっこありません。

ヤマトタケルは簡単に出雲建の首を斬ったと言われています。

こうして、クマソタケルの討伐に加え、出雲建の討伐まで果たし、意気揚々と帰って来たヤマトタケルを待っていたのは父天皇のお褒めの言葉ではなく「東国を平定せよ」との冷たい命令でした。

おそらく景行天皇はクマソタケルだけではなく命令もしなかった出雲建まで滅ばしたオウスの性格に不安をますます強めたのではないかと思われます。

親である自分にいつ刃を向けるか油断できない息子-と考えたのではないでしょうか?

いずれはこの凶暴さが自分に向かってくるかも知れない…と恐怖まで感じたかも知れません。

年齢的にも成人に近いだろう思われるオウスを次代の天皇と考える臣下も多かったと推測されますし、ひょっとするとクーデターを起こされかねない…

その疑心悪鬼の気持ちが休む間もない遠征の命令になったのではと思います。

 

叔母倭比売

クマソタケルを滅せという天皇の命を見事に果たしたのに、人々の賞賛をゆっくり聞く間もヤマトタケルにはありませんでした。

景行天皇は「東方の従わない者どもを説得し、平定せよ」と、柊の長い矛を与えたのです。

そんなものより、鍛えられた剣の方がよほど役に立つと思いますよね。

内心にあふれる不満を押し隠し、ヤマトタケルは東国へ下ります。

その途中彼は再び伊勢に立ち寄り、叔母の倭比売にまたまた泣き言をもらいました。

ここら辺は、前途を心細く思う者にはよくあることで、何となく親しみを感じるのは筆者だけではないと思います。

「父君は、私など死んでしまえば良いと思っていらっしゃるのでしょうか。西方のクマソタケルや出雲建を討ちはたし、大和へ戻ってから、まだいくらも時が経っていないというのに。私や部下はろくに休んでもいないのに、すぐさま東国へ行けとおっしゃる。しかも今回は兵士も無しに平定しろとは」

ヤマトタケルの言うことももっともです。

ただし、世知に長けた倭比売は同時に兄天皇の不安も感じ取ったのではないでしょうか?

どちらに肩入れすることもできない叔母は若者をなだめることしかできなかたかも知れません。

しかし彼女は草薙の剣と袋を授けました。

「この剣は火を防ぎます。そしてもし緊急のことがあれば、この袋の口を解きなさい。必ず助けになります」と言って見送ったのでした。

 

草薙の剣 ~弟橘比売が身代わりに~

ヤマトタケル廻(モンスト)伊勢から尾張国に到着したヤマトタケルはそこの豪族の娘美夜受比売と知り合います。

名前からして美女とわかる彼女と婚約し、東国へと向かいます。

途中あちこちの神々(?)や逆らう者達を倒しながら東へ東へと進むのでした。

相武国(今の静岡県)では、権力者の計略にはまり、ヤマトタケル一行は野原の真ん中で火を放たれてしまいました。

「万事休す!」と思ったヤマトタケルは倭比売にもらった袋を開くと、中にあった火打石を使い、火を起こしました。

向かい火です。

火と火がぶつかっている間を縫い、草薙の剣で草をなぎ払い脱出に成功しました。

自分たちを追い込んだ相手を直ちに殺してしまったのは言うまでもありません。

また走水海(今の浦賀水道)を渡ろうとしたとき、海の神は荒波を起こし、ヤマトタケルの船を巻き込んだのでこれ以上進むことができなくなりました。

このとき妻の一人弟橘比売(何人妻がいたのかはわかりません)が進み出て「私が代わって海の中に入ります。

あなたは天皇に命じられた任務を見事なしとげて、ご無事でお帰りください」と訴えました。

ヤマトタケルは拒みましたが、彼女は菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重、波の上に敷かせると、その上に降り、波間に沈んだのです。

海の神が美しい犠牲を嘉納したのでしょうか、荒波は自然と静まり、船は進むことができました。

弟橘比売が入水してから7日後、彼女の櫛が海辺に流れつきました。

ヤマトタケルは御陵を作り、妻の形見の櫛を納めたと言います。

妻という大きな犠牲を払ったかいがあったのか、ヤマトタケルの東国平定は無事に終わりました。

一段落したとき足柄峠に立った彼は「ああ、妻よ」と初めて弟橘比売を忍んだのでした。

この【ああ妻よ】が【あづまよ】になり【あづま】となって、この地方(東国)をあづまと呼ぶようになったと言われています。

 

美夜受比売との結婚

東国の平定を終えたヤマトタケルは尾張国に戻りました。

いよいよ美夜受比売との結婚!と意気込んだのですが、比売の衣装の裾には血が…。

ぶっちゃけると美夜受比売は生理になっちゃったんですね。

普通こういう場合はエッチはしないんですが、そこはおおざっぱな性格のヤマトタケル。

「せっかく結ばれようという日にあなたの裾に月が出ているよ(生理になってる)残念」と歌いかけます。

美夜受比売はケロッと「あなたを待っている時間が長かったんで月が出ちゃったんです」と切り返します。

要するに男も女も「そんなの、気にしないもん」というわけで、実質的に二人は結ばれました。

その後伊吹山の神を退治に出かけたヤマトタケルですが、なんと大切な草薙の剣を置き忘れてしまったのです。

叔母から授かった剣ですから神の御加護があったでしょう。

それを忘れたヤマトタケルに加護はなくなったのかも知れません。

伊吹山の神(巨大なイノシシと言われています)の祟りを受けたヤマトタケルは何とか逃げ帰ったものの、日に日に衰弱し、大和へ帰る途中伊勢で死んでしまいました。

彼の魂は、大きな白い鳥となって、天を翔けていったと言われます。

その墓(御陵)は白鳥御陵と言い、ヤマトタケルの白鳥伝説はここに由来していると思われます。

父親に疎まれ、権力とも無縁だったヤマトタケルですが、彼の息子は仲哀天皇となりました。ちなみにその皇后が名高い神功皇后です。

 

ヤマトタケル~悲劇の英雄日本武尊の由来と草薙の剣~ まとめ

勇敢で剛毅、無神経だけど父に嫌われてしょんぼりする繊細な性格…

筆者にとってヤマトタケルはそんなイメージがあります。

ここでは一般的に知られているヤマトタケルについて紹介しましたが、あなたのイメージは変わりましたか?