二代目吉野太夫|どの太夫よりも美しいと評された花魁の鑑

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吉野太夫

遊女の中でも最上級の地位となる太夫。才色兼備な遊女にのみ許された称号で、襲名制でもあります。

「吉野太夫」は、京都で10代目まで続いた称号ですが、なかでも多くの逸話を残したのが、2代目吉野太夫です。

京都の花街でトップに君臨した女性の一生を見てみましょう。

京の吉野太夫

京都に実在した遊女のなかで、とくに有名な人物といえば吉野太夫です。

遊女といえば、島原が連想されそうですが、まだ幕府によって、遊郭が制定されていない時代でした。

六条三筋町が、島原と呼ばれるようになる前の京都で、太夫としてトップに君臨してしました。

吉野太夫の称号は有名ですが、実は2代目以外の太夫については、ほとんど詳細が伝わっていません。

吉野太夫の名前が挙がれば、よほどのことがない限り、「2代目」のことを指していると考えて大丈夫です。

2代目吉野太夫

吉野太夫

吉野太夫

2代目吉野太夫は、歌舞伎や物語の題材としても、たびたび取り沙汰されるほど後世に名を残した人物です。

「松野徳子」という本名や、西国武士の娘という出自、慶長11年(1606年)~寛永20年(1643年)という生没年まで、かなり詳しく伝えられています。

「夕霧太夫」「高尾太夫」と並んで『寛永三名妓』の一人としても数えられています。

当時の京都には18人の太夫が存在していましたが、最高級の太夫同士と比べてもなお、突出した才覚を持っていました。

化粧をせず、着飾らない寝間着姿であっても、どの太夫よりも美しいとされていたほどです。

美しさの評判は明国まで伝わり、「東に林羅山、西の徳子よし野」とまで称されました。

日の本のみならず、明国の皇帝にまで知れ渡った美貌。和歌や連歌への造詣の深さ、琴や笙(しょう)などの腕前、茶道・華道・香道にも通じ、囲碁を極めるという、諸芸に秀でた名妓だったのです。

吉野太夫の命日が、「吉野太夫忌(よしのだゆうき)」または「吉野忌(よしのき)」という季語として残っていることから、影響の大きさが窺われます。

仲秋の季語として分類されているので、一句詠んでみるのもオツですね。

2代目吉野太夫の逸話

2代目吉野太夫は、数々の逸話を残した人物でもあります。

ときに刀鍛冶見習いと、ときに関白の官位を授かったやんごとなき身分の男性と、人々の記憶に残りやすいドラマを繰り広げました。

刀鍛冶職人の弟子との一夜の思い出

吉野太夫は、7歳で遊女の世話をする禿(かむろ)として妓楼に入り、14歳で吉野太夫を襲名するほどの才女でした。

太夫クラスともなると、客はすべて雲の上の存在です。

一晩の水揚げ代も高額でしたが、それ以上に、お客にも格が求められていました。

そんな吉野太夫に、切なく思いをよせたのが、刀鍛冶職人の駿河守金網の弟子でした。

弟子の身分では、太夫の水揚げ代を稼ぐにも一苦労でしたが、なんとか53匁という金を集めて妓楼へ向かいました。

しかし、客としての格が不足していたため、門前払いをされてしまいます。

それを知った吉野太夫は、弟子を密かに妓楼に招待し、一夜の思い出を作ったと伝えられています。

この逸話から、慈悲深い女性として、名を上げました。

美貌、才覚に加えて、情の深い、非の打ち所がない太夫としてもてはやされました。

関白と豪商の身請け合戦

吉野太夫は、26歳で妓楼を出ることになります。

身請け先として名乗りをあげたのが、関白の官位を受けていた「近衛信尋(このえのぶひろ)」と、豪商として名を馳せた「灰屋紹益(はいやじょうえき)」の二人でした。

近衛家は皇族の血筋、灰屋は政財界の大物、この二人が身請けを競い合ったのです。

しかも、関白をおさえて、灰屋が勝利したので、お金の力の恐ろしさを感じてしまいます。

吉野太夫は灰屋紹益の正妻に収まり、競り負けた近衛信尋は、しばし落胆の日々を送ったと言われています。

ちなみに、吉野太夫の名の由来には諸説あります。

1つ目は、吉野太夫を娶った灰屋紹益が「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」と嬉しさを詠ったものという説です。

身請け合戦は、さぞ過酷な戦いだったのでしょう。

2つ目の説は、吉野太夫が妓楼の前の桜を見て「ここにさへ さぞな吉野の 花ざかり」と詠ったからだというものです。

正妻としての吉野太夫

灰屋紹益に正妻として迎えられた吉野太夫は、ここでも才覚を発揮します。

遊女としての派手さや華やかさは脱ぎ捨て、質素な暮らしを心がけたと言われています。

夫の親族の受けも良く、遊女の鑑(かがみ)と言わしめました。

また、信仰心も厚い法華経の信者でもあったことから、私財を投じて、洛北常照寺に山門を寄進したりしています。

現在の京都市北区鷹峯にある常照寺には、「吉野門」と呼ばれる朱色の門が佇んでいるので、散策に出向くのも良いでしょう。

吉野門

常照寺吉野門

よき正妻として慎ましやかに暮らした吉野太夫は、38歳の若さでこの世を去りました。

悲しみにくれた灰屋紹益は、太夫の遺灰をすべて飲み干したとも言われています。

寄進の縁から常照寺に埋葬されることになりましたが、お墓の中は遺品のみなのかもしれません。

二代目吉野太夫 まとめ

稀代の太夫としての名声をほしいままにした吉野太夫。

常照寺では、毎年4月の第2日曜日に太夫を偲んだ「花供養」が行われるほど、没した後も大切にされています。

  • 2019 04.22
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