花魁道中|コスプレする前に知っておきたいファッションの由来

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花魁

花魁のコスプレが流行る中、本当の花魁道中にみるファッションの由来をご存知の方は少ないと思います。

エンタメ世界のキャラクターの中でも花魁をイメージしたキャラクターは多く存在します。

コスプレの際にも本格的な知識を少し入れるだけで、他の人とは違った存在感を放つものです。

さて、江戸時代の最高位の遊女であった花魁ですが、当時のファッションリーダーとしても有名な存在でした。

江戸の女性の流行の最先端は、吉原から発信されていたとも言われます。

そんな花魁のファッションとは、どのようなものだったのでしょうか。

花魁のファッションとは

花魁の衣装は、ファッションリーダーとなっていただけあって、豪華で目をひく仕様となっています。

衣装は、花魁が自分で購入する場合もありましたし、なじみの客から贈られることもありました。

豪華な衣装を身に纏うことで、これだけの物を揃えるだけの器量があることを示していたのです。

花魁の衣装は、遊女としての格を見せつけるという目的もありました。

そんな花魁のファッションは、部分ごとに特徴的なポイントが存在します。

「着物・帯・着付け・髪飾り・下駄」の、5つの部分に見られる特徴を、まとめて見ていきましょう。

花魁の着物は「花嫁衣装」がコンセプト

花魁ファッション

花魁ファッション(イメージ)

花魁の着物が豪奢なのは、「花嫁衣装」がコンセプトとなっているためです。

通常、女性が結婚するときは、いつもより豪華な装いとなりますね。

花魁は、夜毎異なる客と夜を過ごします。

一晩限りの妻として「初夜」を迎えるという考えのもと、花嫁をコンセプトにした衣装を纏っていました。

白無垢と色打掛

花嫁衣装といえば、真っ白の「白無垢」と、色鮮やかな「色打掛」などがありますね。

江戸の遊女は、旧暦の8月1日に行われる「八朔の日」と呼ばれる紋日には白無垢を、その他の日には「色打掛」をベースにした装いをしていました。

紋日とは、幕府公認の遊女屋が軒を連ねた、遊郭の中だけの特別な祝日のことを指します。

もともと「八朔」は、徳川家康が初めて江戸城に入った日を記念して、その年に収穫された穀物を贈り合う日です。

しかし、遊郭の中では、着物を新調する「移り替え」という衣替えのような意味を持つ日となりました。

色も柄も鮮やかな色打掛は、現代の花嫁も着用することがありますね。

打掛は、内側に着用する着物よりも、一回り長めに仕立てられる、上着のようなものです。

打掛は、公家の女性の装いから発展したものなので、引きずるほど長いことが当たり前でした。

高貴な身分の女性ですから、それほど動き回る必要がなかったのかもしれませんね。

ちなみに、外出するときは、裾の両端を持って移動していました。

また、長い打掛はその構造上、引きずって歩くときに裾がめくれたり足にまとわりついたりします。

そのため、歩行の邪魔にならないよう、裾部分に綿をつめる必要がありました。

 

「ふき」と呼ばれるものですが、花魁の色打掛には、とくにたくさんの「ふき」が詰められていました。

より高価で見栄えがするためだったと考えられています。

裾裏や下着となる襦袢をチラ見せすることも可能だったので、セクシーさも追求していたのかもしれません。

公家の装束だった打掛を、庶民も使用するようになったのは、江戸時代に入ってからのことです。

裕福な庶民の婚礼などで用いられるようになり、「花嫁」をコンセプトにする花魁の衣装に使用されるようになったと言われています。

花魁の帯は「前結び」が基本

花魁

花魁の帯は、前で結ぶことが基本となっています。

現代の帯は、後ろで結ぶことが基本ですね。

帯の前結びも、花嫁衣装と関係していると考えられています。

じつは、江戸時代の服装では、既婚女性は「前結び」、未婚女性は「後ろ結び」が基本だったのです。

そのため、花嫁をコンセプトにしていた花魁の衣装でも、前結びが用いられていました。

また、帯を前にしておくと、「初夜」を迎えるときに、ほどきやすいという利点もあったからだとも言われています。

 

ちなみに、現代の着物の帯が後ろ結びになっている理由は、帯の幅の広さが関係します。

江戸時代より前の時代の帯は、紐状で細かったため、前結びにしていました。

しかし、江戸中期ぐらいから、じょじょに幅が広くなったため、前結びでは家事などの仕事の邪魔にしかなりません。

そのため、庶民の間では前結びは廃れてしまったのです。

高貴な身分の女性や裕福な家の女性は、家事をする必要がなかったため、前結びの割合は高かったようです。

花魁も、家事仕事などとは無縁の存在だったので、前結びのままでも支障がなかったんですね。

また、非日常を売りにするのが当時の遊郭だったので、高貴な身分の女性を模倣することも、販売戦略のうちだったのかもしれません。

「前結び」の方が目にも華やか

花魁が前結びを採用していたのは、花嫁衣装や非日常の演出という意味の他にも、正面から見たときの見栄えも追求していたからです。

花魁が使用していた前結びの帯は、結び方もいろいろと工夫されていました。

とくに豪華だと言われた「俎板(まないた)帯」という結び方は、幅19cmの帯を胸前で結び、1mもの長さのたれを作ったものです。

ここに滝糸と呼ばれる、飾り糸も追加して、絢爛豪華な結び方にしていました。

このほかにも、前で五角形の形に結ぶ「心」という結び方や、お客をとるときや普段使いするときに用いた、花結の変形のような「鮟鱇(あんこう)帯」といったものなど、さまざまな形のものがありました。

前結びは、帯のいちばん豪華な部分を見せつけることができ、顔と一緒に艶やかさを強調することができます。

結び方や飾り方で花魁のファッションセンスも問われるため、まさに格を見せつけるための絶好のアイテムだったと考えられます。

花魁の着付けは「チラ見せ」が命

花魁は春を売る遊女なので、際どい露出が連想されるかもしれませんが、実際は意外と控えめでした。

江戸時代のことなので、当時としては、それでもセクシーな領域に入っていたのかもしれませんね。

着付けで特徴的だったのが、大きな抜き襟です。

抜き襟は、後ろ襟を引き下げて、うなじが見えるようにする方法です。

花魁の場合、後ろの引き下げが大きく、うなじから背中のラインが見えるような着付け方でした。

その割には、正面の襟は、上品にきっちりと合わせられえているのが特徴です。

現代でも、成人式などで「花魁ファッション」として、正面の襟も大きく開いて両肩をむき出しにする着物の着方がありますね。

こちらと比べると、昔の花魁の方が、露出は控えめだったことが分かります。

ちなみに、花魁の抜き襟は、特別な仕立ての着物が必要だったため、現代の着物では再現できないと言われています。

着物の打掛で足元をチラ見せして、抜き襟でうなじや背中をチラ見せする花魁のファッション。

適度に隠した方が、セクシーさも上がるということですね。

花魁の髪飾りは「家一軒」のお値段

花魁のファッションが定着したのは、江戸中期のころとなります。

しかし、最盛期を迎えたのは、江戸も後期に入ってからのことです。

この時代の花魁が、現在もイメージされる花魁の原型なのでしょう。

花魁のファッションでも、とくに目立つのが、髪飾りのたぐいです。

鼈甲や銀といった高級な素材を用いた髪飾りを、ふんだんにあしらっていたため、首から上の装いを揃えるだけでも、家一軒分の予算が必要だったと言われています。

髪飾りの質と数が、花魁としての格に直結するため、手が抜けなかったんですね。

笄(こうがい)

花魁の髷(まげ)の左右を彩る、細長い棒状のアクセサリーが「笄」です。

もともとは、髪を巻き上げて固定したり、頭がかゆいときに髷を崩さないように掻いたりするための道具でした。

江戸後期に使用されていた笄は、アクセサリーとしての意味合いが強く、「金・銀・鼈甲・瑪瑙・水晶」といった高級素材が用いられていました。

左右対称となるよう、何本も必要としたので、これだけでも一財産になりますね。

遊郭の場所によって、飾り方や数が異なっていたとされています。

簪(かんざし)

江戸時代に入るまでは、髷の結い方も、簪の形もシンプルなものがほとんどでした。

戦のない、平和な江戸時代になると、髷や簪は、どんどん複雑化し、豪華になっていきます。

蒔絵や螺鈿(らでん)、象嵌(ぞうがん)や透かし彫りといった、職人の技法も発達したことから、さまざまな種類の簪が派生したのです。

素材も、金や銀、鼈甲だけに留まらず、象牙などの珍しいものが扱われるようになりました。

通常の庶民は、簪は一本だけが基本でしたが、花魁は左右に4本ずつと、贅沢な使い方をしていました。

櫛(くし)

日本の櫛といえば、髪をすくだけでなく、装飾品としても扱われます。

花魁の髪飾りとして使用するものは、歯の部分が少ないことが特徴です。

基本的に、誰かと対面したときによく見えるように、額の上や頭頂部の中間あたりに飾ります。

花魁のファッションが最も華やかなころには、櫛の三~四枚挿しが普通だったようです。

こちらも、鼈甲や螺鈿、蒔絵などの高級な素材や細工が用いられてきました。

よく目立つようにと、大ぶりなものから小ぶりなものまで、さまざまなサイズが準備されました。

花魁の下駄は「厚底」も顔負け

高下駄

高下駄

花魁が履く下駄の中で最も有名なのは、高さ30cmはあろうかという、底の高い「高下駄」です。

現代の厚底ブーツも顔負けの高さを誇ります。

三枚の歯に、黒塗りであることが特徴で、大通りを練り歩く花魁の姿を際立たせてくれるアイテムです。

また、底の高い下駄を履くことで、足のすねやふくらはぎをチラ見せする効果もあったと考えられています。

しかし、高さゆえに安定性に欠けるので、移動するときは男衆(おとこし)と呼ばれる男性の肩を支えにしなければいけませんでした。

扱いづらい高下駄を、難なく使いこなすことも、花魁に求められる条件の一つだったのでしょう。

大通りを練り歩く最中に、よろめいたり、下駄を外したりするとは何よりの恥とされていました。

恥をかいた花魁は、自腹でおごらなければケチがつくと考えられていました。

験担ぎの一種ですが、遊郭はとくに縁起を大切にしていたため、しきたりは厳守しなければいけなかったようです。

最大の見せ場は「花魁道中」

頭から爪先まで、徹底的に飾りたてた花魁のファッション。

その最大の見せ場は、「花魁道中」と呼ばれる、大通りでの練り歩きです。

花魁道中は、簡単に言えば、指名してくれた馴染客へのお出迎えです。

現代のホステスさんで言えば、パレード式の同伴出勤のようなものでしょうか。

吉原には、遊女屋だけでなく、お客の案内や接待の待合場所を提供する、揚屋や引出茶屋といった店がありました。

常連の上客は、吉原に入ると、揚屋に入ってお気に入りの花魁を指名するというシステムとなっていたのです。

花魁道中の手順は、以下のような感じです。

花魁道中の手順

  1. 揚屋で常連客が花魁を指名する
  2. 揚屋から花魁のいる見世に連絡が入る
  3. 花魁は着飾って、たくさんの伴を連れて揚屋へ移動
  4. 魅力を振りまきながら、ゆっくりとお出迎え
  5. 客は、酒を飲んだり芸者と遊んだりしながら到着待ち
  6. 花魁が到着、見世までお客を連れて戻る

花魁クラスともなると、枕を共にするまでに、かなりの時間を必要としていたことが分かりますね。

せっかちな男性は嫌われるといったところでしょうか。

ゆったりとしたお出迎えの様子が、旅をしているように見えたため、「花魁道中」と名付けられたと言われています。

花魁道中を共にできるのは、見習いの遊女である「禿(かむろ)」と、デビュー直前の「新造(しんぞう)」、下男などでした。

花魁としての格を見せつけるため、重さ数十キロにも及ぶ衣装を纏い、魅力を振りまきながら歩くのは、途方もない精神力を必要としたことでしょう。

どんな仕事でも、トップを張る人は違いますね。

花魁の身分についてはこちら↓の記事で詳しく解説していますので参考にしてください。

花魁と太夫の違い|遊女の身分と地位

ちなみに、花魁道中に必要な費用は、最高級の遊女で一晩三十~四十両はかかったと言われています。

一両は、現在の貨幣にして約10万円となります。花魁の指名代、揚屋代、ご祝儀、酒宴代など、さまざま費用を必要としました。

常連客にとっても、花魁道中を行うだけの力があることを誇示できる、絶好の場となっていました。

花魁道中の歩き方

花魁道中

花魁道中

花魁道中では、ただ美しい衣装を纏って歩いているだけではありません。

吉原を行き交う、すべての客に見せつけるように、歩き方にも工夫がされています。

なかでも特徴的なのが、「八文字」と呼ばれる歩き方です。

「八文字」には、足を内側に向けて八の字型に運ぶ「内八文字」と、爪先を外側に開いて動きを大きく見せる「外八文字」と呼ばれるものがあります。

 

内八文字は、主に京都の遊郭で用いられてきたものです。

奥ゆかしい足運びになるので、静かな印象になります。

対して、パフォーマンス性を強めたのが、外八文字です。

高下駄をくるりと回して、外に大きく八文字を描くため、動きが派手になります。

江戸の吉原で主に用いられてきました。

外八文字は、必然的に足の動きが大きくなるため、すねやふくらはぎをチラ見せしやすくなることも人気の理由でした。

しかし、ゆっくりとした動作で、一歩一歩を進んでいくため、足腰の強さと優雅な脚さばきの技術が求められます。

高下駄での外八文字を習得するには、最低でも3年の修行が必要だと言われていたほどです。

ちなみに、花魁道中以外の場面では、「すり足」と呼ばれる、和装に最も映える歩き方を身につけていたと言われています。

武家の礼法にもつながる所作で、慎ましやかで品のある動きをマスターしていたようです。

花魁道中のための手入れ

高位の遊女である花魁となるには、美貌の維持も必要不可欠です。

雪のように白い肌と、烏の濡羽色の髪が、この時代における美人の条件でした。

なかでも、足のケアには大きな労力をさいています。

現代とは異なり、江戸時代は、厳寒の季節以外は素足で過ごすのが普通でした。

何よりも「粋」を大切にする江戸の人間にとって、素足は外せない条件だったのです。

しかし、手入れを怠れば、すぐに汚れや肌荒れなどで生活感が出てしまう部分でもあります。

非日常を売りとする花魁にとって、生活感がただよう足でいるわけにはいきませんでした。

ケアを徹底し、足先まで白粉をつけて、美しい足を保っていました。

また、下着に該当する腰巻きや肌襦袢には、赤い色を採用し、白い足とのコントラストを工夫していたと言われています。

YouTube動画出典:日光江戸村 花魁道中 ノーカット版 2014.4.26

花魁道中|コスプレする前に知っておきたいファッションの由来 まとめ

きらびやかな花魁のファッションは、ただ身につけるだけでなく、最も効果的に見せる技量までをも必要としていました。

縫製技術が進んだ現代の方が、華やかな衣装となるでしょうが、見せ方まで心得た女性は、なかなかいないのではないでしょうか。

  • 2019 04.18
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